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永住ビザ と三木清

永住権ビザというと、もちろん日本の永住ビザを取り上げたいわけですが、今日お会いした韓国人の方は、インドネシアと米国の永住ビザをすでにお持ちだそうです。私も同じ日本に住む外国人ですが、日本の永住権のことばかりに目が向いていました。ただ、永住ビザについての彼のお話によると永住権を維持するというのは本来大変なことで、インドネシアの永住ビザも、10年間のうち、5年間をオーストラリアで過ごさないと、永住ビザが事実上失効するということです。
読書は一種の技術である。すべての技術には一般的規則があり、これを知っていることが肝要である。読書法についても古来いろいろ書かれてきた。しかし技術は一般的理論の単なる応用に過ぎぬものではない。技術においては一般的理論が主体化されねばならず、主体化されるということは個別化されるということである。これがその技術を身につけることであって、身についていない技術は技術と云うことができぬ。読書にとって習慣が重要であるというのも、読書が技術であることを意味している。技術は習慣的になることによって身につくのであり、習慣的になっていない技術は技術の意義を有しないであろう。そのことは固より読書にとって一般的規則が存在しないことを意味するのではない、もし何等の一般的規則も存在しないとすれば、それが技術であることもできぬ筈である。
 一般的規則の主体化を要求する点において、すでに手工業的技術は工場的生産の技術よりも遙かに大きいものがあるであろう。まして読書の如き精神的技術にあっては、一般的規則が各人の気質に従って個別化されることが愈々《いよいよ》必要になってくる。めいめいの気質を離れて読書の技術はないと云っても好いほどである。読書法は各人において性格的なものである。それ故に各人にとって自分に適した読書法を発明することが最も大切である。読書の技術においてひとはめいめい発明的でなければならぬ。もちろんこの場合においても発明の基礎には一般的規則がある。しかし自分の気質に適した読書法を自分で発明することに成功しない者は、永く、楽しく、また有益に読書することはできないであろう。
然るに濫読と博読とが区別されるようになる一つの大切な基準は、その人が専門を有するか否かということである。何等の方向もなく何等の目的もない博読は濫読にほかならぬ。一般的な読書に際しても、ひとはなお何等か専門というべきものを有しなければならぬ。一般的教養も専門によって生きてくるのであって、専門のない一般的教養はディレッタンティズムにほかならない。一般的教養と専門とは排斥し合うものでなく、むしろ相補わねばならぬものである。ひとは固《もと》よりつねに一定の目的をもって読書するものではない。何か目的がなければ読書しないというのは読書における功利主義であって、かような功利主義は読書にとって有害である。目的のない読書、いわば読書のための読書というものも大切である。これによってひとは一般的教養に達することができる。一般的教養を得るという目的で一定の計画に従って読書することは勿論《もちろん》善いことではあるが、しかしかような計画は実行されないのが普通であって、むしろ若い時代から手当り次第に読んだものの結果が一般的教養になるという場合が多い。一般的教養は目的のない読書の結果である。けれども当てなしに読んだものが身に附いて真の教養となるというには他方専門的な読書が必要である。専門のない読書は中心のない読書であって、如何に多く読んでも何も読まなかったに等しいことになる。いわゆる読書家の陥り易い弊はディレッタンティズムである。
三木清の時代には、永住ビザというビザは無かったかもしれませんが、上記の文章を読むと、永住ビザについてもっと読書しなくては、という気持ちにさせられます。